その6 2022年05月16日

 祖父五木雄には,二男二女があり,次女が私の母です。戦争中は,弁護士は無用の長物扱いであったようで,平和があってこその弁護士ということになります。

 母の弟,次男・秀雄は,昭和11年に生まれ,昭和36年に早稲田大学法学部を卒業し,昭和38年に祖父五木雄と同じ第二東京弁護士会に登録しました。

 私が早稲田へ進み,弁護士を選んだのは,祖父と叔父がいたからです。私が司法試験に合格する前年に祖父は亡くなり,叔父と共に同時期に揃って弁護士登録することはかないませんでした。

 叔父は,独身であったため,残念ながら石原家の弁護士は三代で終わり,今では全員犬山市の石原家の墓に眠っています。

早稲田大学
早稲田大学

その5 2022年05月16日

 曾祖父毛登馬は大変社交的で,維新後も元主筋の成瀬家や郷里犬山から上京した人々とも親交を続け,明治41年にはブラジルへ初めて移民する郷里の人々と共に笠戸丸で彼の地を訪れたそうです。

 曾祖父毛登馬と祖父五木雄は,京橋の同じ事務所で執務していました。何故,二人が東京弁護士会からわざわざ別の新しい弁護士会へ移ったのかは,今となっては分かりません。祖父に聞いておけば良かったと思います。

 ところで,母の話では,二人は,荏原の自宅から人力車2台を連ねて事務所や霞ヶ関の裁判所へ通っていたそうです。昭和初期までのことです。時間はかかったでしょうが,電車通勤の私からはうらやましい限りです。

その4

2022年05月15日

母方の祖父石原五木雄(イキオ)は,明治26年,京都で小谷家の三男として生まれました。家が貧しく苦学して第三高等学校(現京大)から東京帝国大学法学部へ進み,三井物産に就職しました。大正8年,毛登馬の一人娘・石原冨貴子(私の祖母)と婚姻し,毛登馬の婿養子となり,大正10年,東京弁護士会に登録,25歳で弁護士となりました。当時は,帝大の法科卒であれば,無試験で弁護士になれました。祖父五木雄は,叔父から聞いていたとおり,大正15年(1923年)東京弁護士会から分かれて設立された第二東京弁護士会の原始会員であることを今回確認できました。(写真:平等院鳳凰堂・宇治)

その3

2022年05月12日

弁護士会は,戦前は司法省の監督下に地方裁判所の管轄毎に1つずつありました。北海道だけは,地方裁判所が4つあるので,弁護士会も4つありました。その他の地方は東京も含めて1つずつでした。しかし,東京は昔も今も圧倒的な弁護士人口があるため,分裂の動きが生じ,法改正を経て,例外として,複数の弁護士会が認められることになりました。 東京弁護士会から第一東京弁護士会が分かれ,更には東京弁護士会から第二東京弁護士会が分かれました。現在でも3つの弁護士会があります。因みに,第二東京弁護士会は日本で最も新しく設立された弁護士会です。(写真:明治村・京都市電)

その2

2022年05月12日

母方の曾祖父石原毛登馬(モトメ)は,幕末の文久2年(1862年),愛知県犬山の武家に生まれました。6歳で明治維新,7歳で版籍奉還があり武士は廃業,明治16年(1883年)に21歳で家督を相続しました。毛登馬がいつ上京したかは定かでありませんが,中央大学の前身である英吉利(イギリス)法律学校(明治18年・1885年設立)で学んで弁護士になったと聞いていました。今回,弁護士会館の図書館で調べたところ,明治26年の東京弁護士会の創立総会参加者の中に名前がありました。代言人を経ることなく,東京弁護士会の原始会員として31歳で弁護士業をスタートしました。その後,大正12年に東京弁護士会を退会し,大正13年に第一東京弁護士会の原始会員となったことを今回初めて知りました。(写真:国宝犬山城)

その1

2019年09月17日

多くの方にとって,弁護士というのは馴染みのない職業かも知れません。私の父は会社員で小さい頃,私も父の転勤に伴い,幼稚園2つ,小学校3つに通いました。 他方,私の母の実家は,弁護士が三代続いており,遊びに行くと高齢な祖父(二代目)が書斎で静かに本を読んでいました。転勤もないし,のんびりしていて良いなと子供心に思ったものでした。 しかし,その頃,叔父(三代目)は忙しく仕事に追われていたことを子供の私は知るよしもなく,今思えば「のんびり」は,大いなる誤解でした。